4月20日(土)
東北お花見旅の最終日です。
東北の桜といえば弘前ですが、今日は土曜日。人出もハンパないだろうと恐れをなし、世界遺産・平泉に行くことにしました。
平泉は盛岡からだいぶ南下するので、桜はもう散っているみたいですが、その分ゆっくりできるかな?と期待しています。
盛岡から車で1時間位で平泉に到着。
まずは平泉文化遺産センターで、情報をゲット。
歴史や見どころを簡単に紹介しているのでまずはここに寄るのがおすすめです。入館無料なのもうれしい。
文化センターの係の方のおすすめルートに従ってまずは中尊寺へ。
参道は結構な登り坂です。
5分ほど歩いて本堂に到着。まずはこちらでお参りです。
有名な金色堂はこのあとさらに上ったところにあります。
金色堂の入口。ここから有料区域になります。
拝観料は4月1日から値上げされて、1人1,000円です。
この覆堂の中に金色に輝く金色堂があるのですが、内部は撮影禁止でした。
藤原三代のミイラや源頼朝の軍勢に敗れた四代目の首が安置されていることでも有名ですね。
緻密で絢爛豪華な意匠は、平安末期の人々が思い描く極楽浄土の姿なのでしょうか。
実は平泉には中学の修学旅行で来たことがあります。(もう50年以上も前の話!)
キャッキャしてた思い出しかありませんが、この金色堂のことは良く覚えています。それだけ印象的だったのでしょう。
今の覆堂はは昭和30年代に建てられたもので、それ以前に使われていた覆堂も残されていました。築年は室町時代らしいです。松尾芭蕉が奥の細道の旅に出たときに見たのは、こちらの姿だったのでしょう。
その前の鎌倉時代にはもう簡単な覆いがかけられていたそうなので、あの金色に輝く美しい建物を守りたいという気持ちは昔の人も同じだったのですね。
近くの宝物館のフォトスポットで撮ることができた金色堂内部の写真です。
宝物館に展示してあった江戸時代の奉納札には、伊勢出身、日本橋のナントカさんが奉納とか、葛西在住のナントカさんが同行者5人と奉納とか書いてあって興味深かった。
お伊勢参りだけでなくこんなみちのくのお寺にもお参りに来ていたなんて、江戸時代の人々は意外にアクティブですね。
境内の茶店で、弁慶もちというものを売っていました。
ここは、義経、弁慶終焉の地。
義経をかくまった奥州藤原氏も、源頼朝の軍勢に敗れたのでしたね。
兵どもが夢のあと、、、。
弁慶もちは柔らかく香ばしくて美味しかったです。
こちらは藤原二代基衡と三代秀衡による広大な寺院群ですが、当時の建物はすべて失われ、礎石などが残っているだけです。
門の礎石を見てもいかに巨大な建築物群だったのかがわかります。
大きな池を中心にした庭は、代表的な平安時代の様式です。
宇治の平等院が有名ですね。
池に水を送る遣水の遺構も復元されていました。
これも平安時代のお庭のシンボルですね。
毛越寺のすぐ隣には観自在王院跡(かんじざいおういんあと)が公園として整備されていました。
こちらは二代目基衡の妻が造ったもので、やはり巨大な池を配しています。
道の駅平泉にやって来ました。
平泉の世界遺産を構成する5つの遺跡のうち残る2つはここから歩いていくのが便利そうです。
とその前に遅めのランチ。
地元の野菜を使った定食が安くて美味しかった。
お土産や地元野菜なども充実していて、オススメです。
道の駅のすぐ隣りにある柳之御所(やなぎのごしょ)遺跡。
藤原氏の政庁跡だそうです。(ここは、厳密には世界遺産の関連施設で、世界遺産そのものではないそうです)
広大な敷地に大小様々な建物跡があり、豊かな社会であったことがわかります。
柳之御所のすぐ近くにある無量光院跡は、三代秀衡が建立した寺院跡です。
やはり建物はすべて失われ、巨大な池を配した庭のみ整備されていました。
背後の金鶏山に陽が沈むときの光は美しく、当時の人々が、浄土の光に見立てたのではないかと言われています。(この無量光院と金鶏山は世界遺産)
ここ平泉で感じたのは、平安末期の人々の極楽浄土に対する強い思いでした。
さて、最後にやってきたのは達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂。
平泉の中心からは車で10分くらいのところの崖下にあるお堂です。
坂上田村麻呂の創建と伝えられているそう。
藤原三代よりさらに古いのですね。(今の建物は火災のため昭和に再建されたものだそうです)
こんな感じで岩にへばりついているお堂です。
元々は、蝦夷の人々が立てこもった所で、坂上田村麻呂の蝦夷平定後、田村信仰の聖地となったのだそう。
夕方のお堂は静まりかえっていました。
平安時代の人々が少しだけ身近に感じられた、春の平泉の旅でした。